人類の損失ですね...???

なぜ人はゼロから学ばなければならないのか昔から不思議である.

学校に行って,何年も勉強しなければいけない.

究極的には,人類の叡智を集めた媒体があって,そこから情報を新生児に埋め込むようにしてほしい.でもそれは気持ち悪いというのもわかる.

そもそも,この世には,何千年も「学習」という概念があるのに,万人(に限りなく近い大勢の人)にとって最適化されたテキスト,動画などが,この世に存在しないというのはとても不思議である.

そんな存在が,高校までの教科書しかない,というのはおかしすぎる.どの分野にも存在してないとありえないだろ.アホすぎる.

なんでそう思ったかと言うと,自分が勉強しててよく理解できないことがあまりにも多すぎるから.

客観的にみて俺が理解できなかったら世の中99%は理解できないよ?

そのせいで学習効率(深さも含めて)が落ちるのは,俺が悲しい気持ちになるだけでなく,人類の損失だよね,という話

ということで,各分野(学問だけでなく運動や芸術とか)を深く理解している人は,いますぐ結束して(重要.教科書みたいに沢山人をあつめて,組織的に)その分野の教科書を作るべきである.そしてそれ以外のクソみたいな本とかは速やかに廃れて欲しい.どれで勉強すればいいかわからんくなるので.

でも本当は,人類の叡智を集めた媒体があって,そこから情報を新生児に埋め込むようにしてほしい.

わたし,CBT学年なのに国試解いてる,なぜ?

CBT学年ですが国試を解いてます.

理由1:早めにやったほうがいいに決まってるから

早めにやったほうが長い期間その勉強に触れることになりますから,よりできるようになるのは当然です.熟成します.

早くやっても忘れちゃうよ派の人もいますが,6年になって一から勉強を始める場合にかかる時間を100とすると,一度理解が済んでいて,自分でまとめたノートとかを見ながら再びやる場合は,6年での勉強時間が40くらいで済むと思っています.

だったら,5年までに80ぐらいは勉強しておいて,それに6年で40を足して120やっておく.確かにやや時間はかかりますが,完成度が高まります.

また,6年になると時間に追われます.実習があり,試験も迫っている.そんな中,一度学習が済んでいればとても頼りになり,余計に焦らなくて済みますね.

結局,試験は先手必勝だというのが持論です.

 

理由2:他にやるものが思いつかないから

これは僕が特殊な人だからと思っているのですが,みんな今何やってるんですかね?

授業があっても,その後は暇じゃないすか?コロナだけど部活やってんの?

自分の熱中できることがある一部の人はいいですね.私はそんなやる気を注ぐものは思いつかないのですが.

とにかくやることないし,ゲームばっかして過ごすのも嫌.そうなると,勉強を早めにやっておく,読書する,筋トレする,なんかが思いつくのです.

 

理由3: CBTはうんちだと思っているから

CBTはうんち(網羅性がない)と思っています.ただかじっただけなので,理解が不十分すぎて,一対一の暗記に近くなり,僕には分野の全体像がつかめません.だったら国試でそれなりに学習してしまったほうが,記憶に残りやすいタイプなんです,私は.

そもそもCBTがやりやすかったら,普通にCBT解いて終わらせます.でも,謎なんすよねCBTって.なにを要求してるのか分からん.よくわからない程度の知識を入れて,まとまった理解もなく忘れていく...なんになるんでしょうか?

ずれますが,国試レベルの知識試験を4年でやって,実技とか実習に出ないと分からんことを5年でテスト,そしたらもう医師免許で6年目からは研修医でいいと思うんですけど.専門医取ったら30目前っておそいよん.

ま,学生さん期間が長いのは幸せなのでいいですけど.

もちろん完璧に国試を詰める気はなく,1周目問題を解いてだいたい把握できるくらい見返したらCBTやります.目の前がおろそかになるのは本末転倒ですからね.

今日もしこしこQB解きます^^

 

近況 勉強してるよ

国試QBを一日30問目標で実質20問くらい,とろとろと解いている.2セットは終わったはず.もう少し加速したい.

民法2冊目に入り停滞気味なので,加速させる.

研究室にエンジンが掛かり始めるかもしれない.

 

加味帰脾湯が,夢見を減らしスッキリ起きれる.

酸棗仁湯はやや持ち越す気がする.

鼻過敏症がひどいので,どうにかしたい.湯船に入る,クーラーつけっぱなしにしない,ステロイド

 

ピアノも毎日弾きたい.4曲目のエチュードを弾けるようにしたい.

蝶々が特に脱力の練習に良い.スタッカートは半分の音価,それにより軽い印象を与える.

下向きの力以外は,音に関係ない.

 

 

今日の「エリート」学生たち

 エリートを目指す,または親によって目指すことを求められ,それに適応してきた中高大学生(特に理系)は学び・習得すべき知識が膨大である。

 彼ら彼女らは、試験を通過して受験に合格し、企業に就職するための「勉強」を怠ることができない。なぜなら、エリートの社会というものはそういった性質の勉強によって得られる,明らかでわかり易い結果を求めて要所要所で合否をつけるためであり,勉強を怠った人間はエリート社会から弾き飛ばされ不利な立場へと追い込まれるためである。

ただでさえ多くの学問分野は急速に進歩しているのである、知識の習得に費やす時間は人類史上最高を記録し続けているだろう。

医学生の、大学生としての共通目標は医師国家試験に合格することだと言える。そんな国試であるが、医学の発達・求められる医療者像の変化などにより、年々暗記事項は増え、難易度が1世代前と比べると格段に上昇している。

 一方,そういった「勉強」からの自由時間を持ち、読書をしたり,物事を考えたり、論じたり、遊んだり、といった人間の内から湧き上がるような好奇心を発揮させる時間が減少しているのではないか.

豊かな人生とは何かを考え始めるとき,その状況は好ましくないものに思われる.知識を詰め込み紙上に放出することは,果たして私の豊かな人生の種となってくれるのだろうか.

 

  振り返って見ると,元来のサボりぐせと必要とされる知識量からくる忙しさに翻弄され,知識を使って私自身がものを考える機会が極めて少なかったのだろう.

 試験をパスすることができても,それは他者からの要求に適切に応える事のできるだけに過ぎない.果たしてそれは、私を幸せに導き、本当に満たしてくれるのだろうか。

 言い切ってしまうと,私が幸せであろうが無かろうが,他者にとってはどうでも良いことである。会社では便利に働くことが第一である。悪意がなかったとしても構造上そうなる。そのため、他者からの要求に応え続けることの対価として幸せが得られるのだろう,という見込みは甘い。どんな分野にもブラックな働き方が蔓延していることがそれを裏付けている。

 それよりも、自分の中から生じる好奇心や心の動きに耳を傾け、感じ取り、それに自分で応えること。そのことが、より自分らしく、自分が本当に望む生活を送るためには必要なのではないか。豊かな人生とはここにあるものではないのか.

いままで人生において、そういった心の動きを求められることはなかった。それは自ら感じ取るものであり、他人にあれこれ言わせるようなものではないから当然ではあるが。

 

 では、そのように考え方を変えようとするのだが、なかなかバランシングが難しい時代である。その理由としては、得るべき知識が膨大であることがある。そして、他者からの要求に応えなければ、自らの要求を叶えることに様々な制約がかかってくる(主にお金、メンタル)、ということも言える。

そこで私は、「真の要領の良さ」とは、それらを認識した上で、他者からの要求に時間を効率的に使って応えつつ、自らに向き合う時間も確保することなのだと、結論する。

 

ぽよぽよ医大生

最近はぽよぽよとした日々を過ごしている

楽勝な試験が終わり、当然全部合格して1週間...

私は何をしていたのか?

筋トレの減量期

タンパク質を200gとって2300kcal

筋トレの過重は変えない

1週間で700g程度減量

のつもりではじめた

 

結果:つまめる脂肪があまり減らない でも体重は減っている

→筋肉が減ってしまっているということ。

筋トレのモチベーションが低下し、脂肪の代わりに筋肉が減少してしまっている可能性

→トレーニング量を管理し、目標を達成していく必要

筋肉の必要性を自身の体に訴え、不足したエネルギーを筋肉ではなく脂肪から拠出してもらわないといけない。そうじゃないとせっかくの増量期が意味なくなるぅ

国試の勉強(CBTのは終わったので遊びでw)

無料の問トレ(テコム社)を200問程度やった

しかし、どうにもテコムの解説は的外れ&不十分

→手元にあるQB(本)をやってみたら捗ることが判明

 

テコムの解説とか書いてる人って頭悪いのかな?

受験生の成績をあげないための塾な気がするよね

 

投資の本を読む

積立NISAでインデックスのを登録したら飽きちゃって何もやってないw

まず買った本を読もう

デカルト「方法序説」 感想

 

名著中の名著、方法序説を読みました。

私は高校生の時にも読んだことがあるのですが、そのときは時間も少なく流し読みだったので、落ち着いて読み直しました。

 方法序説とはどんな本か?

方法序説とは、ルネ・デカルトによって書かれた文庫のページにして100pほどの短く、しかし濃密な著作です。

この本は実は、彼の500p程度の科学論文の序説のみを切り取って刊行したものですが、ただの序説とは到底思えません。

内容としては、彼が真理にたどり着くために、どのように厳密な手法をたどってきたかを示したものとなっています。

真理というと混乱しますが、これにはデカルトの生きた時代背景が関わっています。

デカルトが生きた時代は1600年頃であり、コペルニクスが天動説を唱えたすぐ後の時代でした。当時は聖書の教えに基づいて、聖書に異を唱えた天動説は受け入れられておらず、天動説支持者は宗教裁判にかけられる有様でした。

つまり、近代的な科学というものは芽吹いたばかりで、アリストテレス的価値観が絶対的なものでした。

そのような中で、正しい証明を重ねて真実に近づこう、という近代的価値観を産み出したの始祖とも呼べるのが、デカルトです。

彼はこの著作の中で、神の存在を限りなく尊重して宗教裁判にかけられることを慎重に避けつつ、彼独自の考えで、理性をよく働かせ、真理に近づくために編み出した方法を記しています。

実際の中身

一番重要とされる4つの原則を書いておきます。

1,自分で明証的に真と認めるもの以外は、どんな事も真と認めない。明証をする際の道具にも使わない。

2,証明が難しい事柄については、より解きやすくするために部分部分に分解する。

3,単純で認識しやすいものから順番に手を付けていく。

4,自分のたどった証明をくまなく見直すこと。

 

これを徹底した結果に、はじめにたどり着いたのが「我思う故に我あり」です。

どのようなものも存在することを示すことができないものの、全てのものを疑っている自身の存在というものは、必然的に認められる(自身の存在が無ければそのような疑い、というものが存在し得なくなり、矛盾するため?)という話になっています。

なにもそんなところまで,,,と思いますが、何が正しく、何が正しくないか、自分の感性や習慣が全く頼りにならない状況で、厳密に示していこうとして得られた真理の1つです。

もっともっと知性を働かせ、基本的であり疑わしくないと感じられるものも
感性を信用せず、明証を積み重ねて世界を認識していくという事をデカルトは強く決意した、ということが繰り返し書かれてあります。

他にも沢山面白い部分があります。

個人的な感想ですが、この本は前半の3章がかなり濃密で、後半はやや失速しているように感じられます。ですので、前半を注意深く読むことが重要ではないかと思います。

後半部のデカルト先生によると、心臓では血が急激に温められて膨張し、それによって心臓がポンプとして働くそうです。面白ポイントですね。

以下感想

デカルトが生きたのは、名証不可能な論理に基づく宗教などの価値観が重視され、
またそれにそぐわない主張をすると罰せられる時代であった。
その中にあっても、真理を見つけ出していく方法、というのが方法序説に書き留めてある。


一方、私達の生きる現代は、デカルトによって展開された真理を見つけ出す思想を発端として、既に多くの優れた科学者(人文系含む)が、多くの事を証明してきた。
その状況を踏まえると、世に広く知られていること、沢山の研究者によって書かれ、
磨かれてきた教科書や参考書というものの蓋然性はどの分野においても極めて高いものであり、
それをかなり当面は真理として認識していくことは、世の中を知る上で、
とてつもなく有用であると言えそうだ。デカルトがもし現代に転生したら、
歓喜して証明過程を追いながら学ぶのではないか。
私の実践としては、全部を丸々明証的に理解するのではないけど、証明過程を追いつつ勉強したい。

そして、中世にありながら、永遠に真理である事を記せたことを、
デカルトは何よりの幸せだと感じてそう。

 

古典的名著はいいですね。400年以上経過してなお、感動的な対話を実現させてくれます。幸せですね。