今日の「エリート」学生たち

 エリートを目指す,または親によって目指すことを求められ,それに適応してきた中高大学生(特に理系)は学び・習得すべき知識が膨大である。

 彼ら彼女らは、試験を通過して受験に合格し、企業に就職するための「勉強」を怠ることができない。なぜなら、エリートの社会というものはそういった性質の勉強によって得られる,明らかでわかり易い結果を求めて要所要所で合否をつけるためであり,勉強を怠った人間はエリート社会から弾き飛ばされ不利な立場へと追い込まれるためである。

ただでさえ多くの学問分野は急速に進歩しているのである、知識の習得に費やす時間は人類史上最高を記録し続けているだろう。

医学生の、大学生としての共通目標は医師国家試験に合格することだと言える。そんな国試であるが、医学の発達・求められる医療者像の変化などにより、年々暗記事項は増え、難易度が1世代前と比べると格段に上昇している。

 一方,そういった「勉強」からの自由時間を持ち、読書をしたり,物事を考えたり、論じたり、遊んだり、といった人間の内から湧き上がるような好奇心を発揮させる時間が減少しているのではないか.

豊かな人生とは何かを考え始めるとき,その状況は好ましくないものに思われる.知識を詰め込み紙上に放出することは,果たして私の豊かな人生の種となってくれるのだろうか.

 

  振り返って見ると,元来のサボりぐせと必要とされる知識量からくる忙しさに翻弄され,知識を使って私自身がものを考える機会が極めて少なかったのだろう.

 試験をパスすることができても,それは他者からの要求に適切に応える事のできるだけに過ぎない.果たしてそれは、私を幸せに導き、本当に満たしてくれるのだろうか。

 言い切ってしまうと,私が幸せであろうが無かろうが,他者にとってはどうでも良いことである。会社では便利に働くことが第一である。悪意がなかったとしても構造上そうなる。そのため、他者からの要求に応え続けることの対価として幸せが得られるのだろう,という見込みは甘い。どんな分野にもブラックな働き方が蔓延していることがそれを裏付けている。

 それよりも、自分の中から生じる好奇心や心の動きに耳を傾け、感じ取り、それに自分で応えること。そのことが、より自分らしく、自分が本当に望む生活を送るためには必要なのではないか。豊かな人生とはここにあるものではないのか.

いままで人生において、そういった心の動きを求められることはなかった。それは自ら感じ取るものであり、他人にあれこれ言わせるようなものではないから当然ではあるが。

 

 では、そのように考え方を変えようとするのだが、なかなかバランシングが難しい時代である。その理由としては、得るべき知識が膨大であることがある。そして、他者からの要求に応えなければ、自らの要求を叶えることに様々な制約がかかってくる(主にお金、メンタル)、ということも言える。

そこで私は、「真の要領の良さ」とは、それらを認識した上で、他者からの要求に時間を効率的に使って応えつつ、自らに向き合う時間も確保することなのだと、結論する。